その他の悪霊

最近読んで面白かった本

愛その他の悪霊について / G・ガルシア=マルケス

侯爵家の令嬢として生まれながらも親からの愛情を受けることなく育ち、屋敷の外で黒人奴隷達と共に暮らしていたシエルバ・マリアは12歳の誕生日に狂犬病に罹った野良犬に噛まれてしまう。狂犬病に感染した者の悲惨な末路を知ったシエルバ・マリアの父イグナシオ侯爵は遅まきながらも父性に目覚め娘を救うために奔走するが、国の状勢やシエルバ・マリアの奇矯な言動によって事態はどんどん悪くなっていく。ついには悪魔憑きと認定され修道院に幽閉されたシエルバ・マリア。そんなシエルバ・マリアの悪魔を祓うために派遣されてきたのは敬虔な神官デラウラ。様々な苦難の中で2人は次第に惹かれ合っていくが…

百年の孤独』や「魔術的リアリズム」の代名詞でお馴染みのG・ガルシア=マルケスの恋愛小説。とにかくタイトルが良すぎる。『愛その他の悪霊について』!18世紀のラテンアメリカ。人種や文化、信仰の違い、歴史に記憶、それに愛情。みんな何かに取り憑かれて破滅へ向かっていく。愛もその他も全て悪霊。と断言しているこのタイトル。小気味良いけど救いがない。しかし救いとは何か。自問したところで結局はそんなものは個人の価値観であって、人それぞれ違って、他人の感じる救いにケチをつける権利は誰にもない。けれども、信じるもののために苦難に遭い今にも死に到ろうとしている人を目にしたとき、自分の価値観の中で救われてほしいと思うこともエゴなんだろうか。独善は悪だが無関心でいることが果たして正しいことなのか。悩ましい悪霊だ。

4分の3ほど読み進めたところで主要登場人物がバタバタと死に始めてこの後どうやって展開していくのだろうと手に汗握って読んでいたらそのまま終わってびっくりした。残りの50ページ以上は単語の注解と作者の年譜だった。特に年譜が、長い。しかもその年譜は作者が生まれる400年以上前のところからスタートしていてさすがに笑うしかなかった。

 

みいら採り猟奇譚 / 河野多恵子

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昭和16年。高等女学校を卒業したばかりの比奈子は父のまとめた縁談により幼いころから家族ぐるみの付き合いがあった尾高家の次男正隆の元へ嫁ぐ。ひとまわり以上年上で優しく理知的な正隆だが、夜になると豹変し子どものように甘えては折檻を求めてくる。比奈子は最初こそ驚き戸惑いをみせていたものの、徐々に順応しサディストの気性を開花させていく。

とにかく装丁が良すぎる。古書店で見つけて気付いた時にはレジ前で財布を開いていた。自宅の本棚に並んでいるだけで頼もしい。サディズムマゾヒズムがテーマの小説なのに過激さやグロテスクさはほとんど無く、むしろぼんやりと空虚で静逸。その落ち着いた空気感があまり馴染みのなかったSMというものを身近なものとして感じさせてくれる。

正隆の究極の願いは愛する妻に自分を殺してもらうことで、物語の最後にその願いは叶うのだが、愛する人に殺されたいという欲求は強烈なマゾヒズムのようでいて、愛する人を殺人者にしてしまう行為で相手の人生をまるごと傷付けることだし、実は婉曲したサディズムなんじゃないだろうか。肉を切らせて骨を断つみたいな。しかし、そもそもマゾヒズムのサブスタンスである「傷つけられる」ということを相手に求めることそれ自体が自分の肉体性も精神性も相手に委ねてしまうことであって、それは相手に受容を求めるある種の押し付けであって、最初からマゾヒズムとはサディズムに対して支配的なものであるのかもしれない。結局のところいつだって傷付けるより傷付けられる方が楽だから。それは我慢強さや寛容さではなくて、言葉の通り楽なのだ。誰かを傷付けて長らく負い目を感じたり思い煩ったりすることに比べたら、自分がその時その場で傷付く方が遥かに楽だ。それで自分が傷付くことで相手もどこか微かに傷付いてくれたらいい。相手に開いた傷口に少しでも居場所ができたらいい。などと知ったような顔で書いてみたものの、こんなの相手の良心に期待しているだけの感傷でしかなく、結局ただの凡人の希望的観測だ。実際に他人を平気で傷付けられるような人間に傷付けられたいとも傷付けたいとも思えない。本当のマゾヒズムサディズムもよくわからない。信仰や愛情で苦しみを美化すること、その切実さは誰にも否定できないが、適切な距離を見つけたい。

  

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