七月

家に傘が10本くらいあったので1本だけ残して全部処分した。

天気予報を見ずに出掛けたり、折角持って出たのに電車に置き忘れたりして、月に何本も傘を買うような破滅的な生活はもう止めだ。と心に固く誓ったのだが、一ヵ月もしないうちにやらかす。

仕事帰り、駅から出るとこの世の全てを恨むみたいな土砂降り。でもまあ家まで歩いて10分だし後は帰って寝るだけだしと、新しいのは買わずに濡れそぼりながら歩いていたら家まであと30mほどのところで知らない家の知らない庭から知らない老人に呼び止められた。

「これを持って行きなさい」と差し出された知らない傘。年季の入った灰色の小さい傘。家、すぐそこなんで、大丈夫です、と出来るだけ、努めて愛想よく断るも聞く耳持たずで、何度かの問答の末に「いいから、後で捨てていいから」と結局押し切られる。靴下まで濡れた状態で30mだけ傘を差して帰る。こういう時、人の優しさに触れて有難いと思うより先に申し訳なさや気後れが勝つ。面倒くさいとすら思う。けれど、健康で幸せに過ごしてほしいなとも人並みに思う。

 傘は返すことも捨てることも出来ず玄関にずっと立ててある。こうやってまた物が増えていく。必要なものだけで生きていきたいけど、生きていく上で必要なものやその分量を一体誰が決められるんだろう。

  

しかし、どうでもいいけど『置き忘れる』って「物を置いたまま持ち帰るのを忘れる」って意味なの、なんだか違和感あるな。

例えば『薬を飲み忘れる』だと「飲んだことを忘れる」じゃなくて「飲むつもりだったけど忘れていた(飲まなかった)」という意味になるんだから『置き忘れる』も「置くつもりだったけど忘れていた(置かなかった)」という解釈の方が正しいんじゃないだろうか?本当にどうでもいいけど、中学生か高校くらいの頃、初めて読んだ寺山修司の詩に「五月の森に誰かが置き忘れた三〇年代の古いポータブル蓄音機がいまもひとりでまわっている」という一節があって、その時自然と、晩春の森林の奥深くで置かれなかった蓄音機の幻影が聴こえない音楽を奏でているという情景をありありと思い浮かべたものでした。なんじゃそら。よくわかんないな。

 

 


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